タネの多様性が食料安保に
タネの多様性を失うことは、ときに私たちの生存にかかわる深刻な問題を引き起こします。
アイルランドでは19世紀半ば、国民の食生活で依存度の高かったジャガイモが、菌病によりほぼ全滅し、当時800万人だった人口の2割が餓死、2割以上が外国に逃れて、半減したといわれます。
新大陸アメリカからもたらされた数少ない品種のジャガイモが大規模に栽培され、大量に消費されるようになったため、瞬く間に病気が蔓(ルビ=まん)延してしまうと、なすすべがなかったのです。
逆に、1970年代にインドとインドネシアの水田がウイルスに襲われたときは、6000種もある稲の品種からウイルスに強い品種を見つけることができ、アイルランドの悲劇を繰り返さないですみました。
昨年の猛暑や豪雨災害、今冬の暖冬など、最近の国内外の気候変動を実感している人は多いと思いますが、さまざまな条件に合ったたくさんの品種を確保することは、いざというときにもとても重要です。
また、気候変動も、農業を変えることで抑えられるといいます。
食肉にされる牛たちが吐き出すゲップは大量の温暖化効果ガスとなり、アメリカでトウモロコシの缶詰をつくのに10倍以上のエネルギーが投入されています。
「多様性を守ることは私たちの命の保証になります」と印鑰さん。
リーキーガットの模式図=印鑰氏提供
似ている土壌と腸内の細菌
化学肥料や農薬、遺伝子組み換え種子の利用により、土壌や作物が大きなダメージを受けるという話がありましたが、実は私たちのからだにも影響することが心配されます。
印鑰さんは「世界から土壌が失われていることは、私たちの腸でも同じことが起きています」として、アメリカでも注目されているというリーキーガット症候群を取り上げました。
岡部賢二さんが本誌連載2月号でも紹介したリーキーガット症候群は、腸壁の一部が傷ついて穴が開き、未消化のものが血液中に漏れ出すことで引き起こされる症状です。
アレルギー疾患や自己免疫疾患など、さまざまな病気の原因になるのではといわれ、印鑰さんは農薬や遺伝子組み換え食品の影響に言及しました。
アメリカでは慢性疾患や糖尿病が増え、とくに若い人たちの平均寿命が2014?16年の3年連続で短くなっているそうです。
「土壌細菌は植物に栄養を与えて植物を育て、腸内細菌は私たちに必要な栄養を与えてくれます。土壌細菌と腸内細菌は、機能がとても似ています。そして、土壌細菌が失われていくと同時に、私たちの腸内細菌も傷み続けていきます」
国連は小規模家族農業推進
それでは、世界はこのまま遺伝子組み換え企業による工業化した農業に席巻されてしまうのでしょうか。
印鑰さんは「いま世界が変わり始めています」と力強く説きました。
その一つの現れが、国連の大きな方針転換です。
かつて民間企業による大規模農業を提唱してきたFAO(国連食糧農業機関)は、2008年の世界食料危機を教訓として、小規模家族農業の推進にかじを切りました。
2014年には国際家族農業年が宣言され、今年から2028年までを「家族農業の10年」と定められました。
そのときの国連の決議では、小規模家族農業を推進することで、食料安全保障や栄養の向上、伝統的な習慣や文化の保全、生物多様性の維持、農民の生活改善による貧困の撲滅、8億人を超える人たちが苦しむ飢餓や深刻な栄養不良の改善、温室効果ガスの排出低減?などにつなげることをうたっています。
また、昨年末には、国連で世界人権宣言の流れを汲む「小農と農村で働く人びとの権利宣言」が採択され、その中で自家採種の種苗の保存・利用・交換・販売の権利などを含む「種子の権利」が明記されました。
まさに農業を変革することで、人類の抱えるさまざまな問題の解決策を見いだすことができると、印鑰さんは話します。
多様性支える農家を守ろう
そうした世界的な潮流や、欧米を中心にブラジルやインド、中国などでも有機市場が拡大する一方で、種子法を廃止した日本では、家庭菜園では何の制約もないものの、農家では農水省の省令で自家採種が禁止される登録品種が増えてきています。
また、ニュージーランドやEUで遺伝子組み換え作物と同様の規制の動きがあるゲノム編集食品について、安全性審査の義務づけを見送ったことなどにも、注意を促しました。
印鑰さんは「数でいえば農家のもつ在来品種は少ないですが、多様性を支えているのは農家のおかげ。農家を守ることこそが、私たちがしなければいけないこと」として、種子法に代わる公的な支援が必要と訴えました。
具体的には、タネ採りの上手な農家と契約して、その農家が安心してタネ採りに打ち込めるよう、自治体などが経済的に支える「参加型育種」により、地域のタネが復活できるのではと提案しました。
ゲノム編集食品
ゲノム(遺伝情報の総体)のうち、特定の遺伝子を改変する遺伝子操作をして生産される食品。新たな遺伝子を導入するのではなく、もともとある遺伝子の機能がはたらかないようにしたものが主。血圧を下げる作用がある成分を増やしたトマト、アレルギー物質の少ない卵などが開発されている。
日本政府は、遺伝子組み換えではないとして、規制せず届け出だけで販売や耕作を解禁する方針だが、がんや自己免疫疾患を引き起こす可能性などが指摘されている。
【健康情報】2019年4月号 タネと私たちの暮らし③へ
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印鑰智哉(いんやく・ともや)
アジア太平洋資料センター(PARC)、ブラジル社会経済分析研究所(IBASE)、Greenpeace、オルター・トレード・ジャパン政策室室長を経て、現在はフリーの立場で世界の食と農の問題を追う。ドキュメンタリー映画『遺伝子組み換えルーレット』(2015年)、『種子ーみんなのもの? それとも企業の所有物?』(2018年)日本語版企画・監訳。『抵抗と創造のアマゾン-持続的な開発と民衆の運動』(現代企画室刊)。共著「アグロエコロジーがアマゾンを救う」。
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